長男・顕大 (あきひろ)


2014年に渡独し、現在はフリーランスの歌手としてドイツ・カッセルを拠点に活動しています。
2023年12月より、ユーチューブで毎週歌を発信する活動も行っています。
ぜひチャンネル登録いただけますと親子ともども感無量です。 

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【ユーチューブチャンネル名】
  Aki Kassel
【チャンネルページアドレス】
https://www.youtube.com/@Akikassel/videos
【インスタグラム】
aki_kassel 

ドイツ便り

◎寺報に載せるネタとして、時々、長男にドイツからのコラムをお願いしています。

ご笑読いただけますと幸いです。

【2021年冬号より】

 ヨーロッパに住んでいて素敵だと思うのは、別の国に簡単に電車や数時間のフライトで行けること。 日本は島国だから、日本以外の国のことを「海外」とか「外国」と表現しても何の違和感もないけれど、ドイツに住んでいて、隣のスイスやフランスを「海外」とはおそらくどんな翻訳家も表現しないだろう。陸続きだからか、「外国」も何だかしっくりこないのは私だけだろうか。 

  ところで先日、イタリアで開かれていた声楽のコンクールに二つ参加してきた。場所はローマとミラノで、ミラノまでは陸路で十時間かけて行くこともできたが、体調を考慮して飛行機にした。どちらのコンクールも入賞を目指して参加したものの、セミファイナルで落選してしまった。あぁ、世界の壁は簡単には超えられない。 声楽のコンクールは世界中で星の数ほど開かれているが、私の周囲の参加者の目的は、入選して顔を、演奏を多くの人に知ってもらうこと。運が良ければ、それがきっかけで演奏の仕事や何かの契約が舞い込んで来たりする。もちろん世の中にはとんでもない才能を持った演奏家もいて、受けるほぼ 全てのコンクールで入賞する強者もいる。ただ私のような凡人演奏家は、色々なコンクールを、例えば 同じ曲目で受けて、一つか二つ入賞できれば、と奮闘している。コンクールは人間が審査するものだ から、審査員が変われば評価も違ってくる。音楽に点数をつけることなど、てんでおかしいと卑下する人も多くいるが、私は見た目に似合わずサムライ根性が備わっているらしく、コンクールには意欲的だ。未来の仕事に繋がる可能性があるなら尚更。精神的にも体力的にもタフである必要があるが、 自分の成長の実感と、モチベーションが続く限り受け続けたいと思っている。 

 ちなみに大学で声楽を勉強したというと、日本でもドイツでもイタリアでも、歌劇、いわゆるオペラを歌うと思われがち。ただ僕は、その王道からは生憎(あいにく)少し外れていて、オペラの曲目を時々コン サートで歌ったりはするものの、好んで歌っているのは宗教曲。「オラトリオ」と検索したらきっと 適当な説明にたどり着けるはずだが、要するに教会で歌われる声楽曲のことで、今回イタリアで受け たのも、二つとも宗教曲のコンクールだった。日本で仏教の寺に生まれたはずの坊主が、ドイツに 渡ったと思ったら、イタリアで教会の音楽を歌っているわけだから、元も子もない。とはいえどちらのコンクールもアジア人だらけで、コロナの影響も何のその、ヨーロッパに住んでいる中国人、韓国人、そして日本人が大量に顔を出していた。バッハにモーツァルト、ヘンデル、メンデルスゾーン・・・。 日本人でありながら彼らの音楽に魅せられてしまったことに、視野の狭い私は自分は異常なのかと 思ったこともあった。しかし、これほどたくさんのアジア人を見かけると「あ、自分みたいな人が他 にもたくさんいるんや」と前向きになれる。コンクールはそうした同輩と出会えるチャンスでもある。 

 だからと言ってクリスチャンになったわけではないので悪しからず。「ある一人の日本人として、 日本人がどうしてバッハの受難曲を歌ってはいけないの。いいに決まっている」と私の声楽の先生も口を添える。日本ではあまり浸透していないこの宗教曲という分野。ぜひユーチューブなどで聞いてみてほしい。オペラから連想するような華やかさはないかもしれないが、荘厳でありながら無垢な、優しい 音楽と出会えるはずだ。




【2019年冬号より】

〈ドイツ人の宗教観〉 
歌やピアノを教えにドイツの子どもたちの家へ毎週訪問しているのですが、おおよそ生徒が中学生くらいになると「来週はConfermationがあるから別の日に振り替えてほしい」とか「Confirmationに向けての準備がある」といったことを言われます。辞書によるとConfimationは日本語で「堅信式」だそうです。日本ではあまり耳慣れない言葉ですが、僕なりの解釈も含め要約すると、それ以前に洗礼を受けたキリスト教徒が、キリスト教徒としての信仰を強める式のことを言うようです。 
この生徒たちは、生後間も無く両親に教会に連れていかれ、洗礼を受けます。そして十四、五歳くらいになると教会に数ヶ月間、週に一回通い、牧師さんの教えでキリスト教についての見識を深めます。その期間が終了すると晴れて堅信式を迎え、式には家族、親戚、友人らが集い、祝います。僕の目からすると少し早めの成人式のような印象です。思春期にも関わらず、「堅信式は私の人生にとってすごく大切な行事」と胸を張って言う子どもの姿には感心すると同時に驚かされます。もちろん一方でかなり冷めた子どもも多く、「親に言われてやった」とか「式に出るとお金とプレゼントがたくさんもらえるんだ」という現金発言もよく耳にします。
さて、僕は数十年前、偶然にも寺の長男として生まれました。そして九歳の時、両親に京都に旅行に行こうと連れていかれ、気付いた時には丸坊主。それまで、おそらく母親の趣味で、ずっと雨上がり決死隊の蛍原徹さんのような髪型だった僕にとって、突然の剃髪はあまりに衝撃的で、今でも昨日のことのように思い出されます。それが所謂、得度式。両親から聞いた話では、浄土真宗の寺に生まれた者は、親鸞聖人が得度した九歳から死ぬまでの間に必ず得度を受けなければならないそうです。そして大学生の時に教師資格を取得。「教師」とは「住職」の一つ前の段階のことで、寺で働く者には必須の資格です。このように「住職候補」として必要なことを人生の合間合間で体験してきた僕ですが、胸を張って「仏教を信仰している」と言えるかというと、未だにその思いは芽生えていないように感じています。
生憎ドイツ人も全員が神を信じている訳ではありません。先述したように、信仰心などと関係なく式に参加し、成人になって「やっぱり神は信じられない」と式を受けたことの取消申請をする人も多くいます。ただ僕がうらやましく思うのは、キリスト教を信仰しているか否かということを、一人一人が自分の意思として強く自覚していることです。
ドイツでは小学校から英語や数学と並んで「宗教」の授業があります。子どもですから家族の信仰にかなり左右されるとは思うのですが、信仰に従ってカトリック、プロテスタント、無宗教、それに加えて現在だと中東からの移民も多いので、イスラム教のクラスが選択肢としてあります。仏教は残念ながらドイツではかなり少数派で、選択肢に自分の宗教が無い生徒は、無宗教クラスの授業を受けます。無宗教クラスの授業は、日本でいう社会科の「倫理」のような授業です。僕はこの学校での宗教の授業が、自己の宗教について考える契機になっているのではないかと思っています。僕が彼らと同じ年齢だった頃、友人と仏教や信仰について語ったことはほぼありません。家族と寺や宗教の話をするのも、なんだか怪談話をしているようで嫌でした。得度をして丸坊主で学校に行かなければならなかったときは、寺に生まれたことをコンプレックスにさえ感じていました。当時の僕は、仏教について、気軽に話せる友人や環境を欲していたのではないかと、今になって思います。僕には、例えばこれから音楽をやめて政治家になり、日本の学校教育に「宗教」を入れよう、というほどの決意はありません。ただ日本でも、子どもの頃から宗教をもっと深く知る機会があることは、決してマイナスではないはずです。信仰が確かな人は心が強い、とドイツに来てから頻繁に思います。何か辛いことがあっても、彼らは神に祈って乗り越えるのです。彼らの強さを、僕もいつか手に入れられたら、と思っています。