西願寺の歴史
当山は、かつては天台宗の寺院で、尾州松山に在りました。今か ら790年前、鎌倉時代にあたる天福元年(1232)に住職「願心房」が、親鸞聖人の直弟子となり浄土真宗に改宗。寺の名前も西願寺と改めました。
その後、文暦元年(1234)、中濃州安八郡脇田村に移り、次いで松ノ木村へ引っ越します。そして再び脇田村に還えり、更に今尾へ移ったと伝えられています。現在の住職で30代目になります。
真宗大谷派第10代門首の証如上人が記されたとされる天文日記(1530‐50年代の本願寺教団や一向一揆および畿内政情を知る上での第一級史料)には、天文5年(1536)2月2日の条に、「斎(とき)に西願寺が上人に付き添った」、天文9年(1540)2月23日の条に、「西願寺が当番の儀式を執り行い、教えに聞き、毎月樽などを持参」、また天文11年(1542)9月8日の条に「西願寺が当番の儀式を執り行い、樽に入れた栗粉餅を持参」と記されています。
(「平田町史」より一部抜粋。尚、漢文の部分など分かりやすく書き換えました。)
【小笠原山西願寺を物心両面 で支えて下さっている皆様】
<責任役員 >
日比野芳則様
<総 代>
山口寿男様、片野敏行様、
谷口則夫様、小池賢次様
橋本英雄様
〈2025年度より新たに西願寺の為に働いてくださる方々を紹介させていただきます。〉
伊藤和明様(西島)
伊藤公一様(西島)
伊藤眞理子様(今尾)
小畑真由美様(今尾)
高木良三様(今尾)
長谷川己義様(今尾)
日比野 智様(今尾)
森島政俊様(輪之内 里)
☆役員の皆様の活躍を下記の寄稿文からくみ取ってやってくださいませ。
「人間が助け合って生きるってこういうことなんだ」 (寺報より抜粋)
御遠忌(2024年4月28日 )厳修の一か月前にドイツから帰国しておりました次期住職(永木顕大)が記したものです。お読みいただければ幸いです。
「御遠忌に寄せて」
数十年に一度の御遠忌法要はもちろん西願寺にとっても一大事で、ドイツに住む私にも二年以上前からこの日は絶対帰って来なさいとの申しつけがあった。たしか自身がまだ小学生の頃、蓮如上人の御遠忌法要があり、その時はまだ祖父も元気で、親子三代そろって行事に参加した記憶がうっすらとはあった。とはいえ他の寺院の優秀な若様らに比べて、地理的にもおそらく精神的にもお寺との距離がある私は、一体自分が何をすべきなのか、行事がどのように進んでいくのか、ほとんど想像ができなかった。
御遠忌法要の一ヵ月ほど前に帰国し、久々の和食に舌鼓をうちながら、隣で毎日馬車馬のように動き回って準備をすすめる両親を手伝った。普段の法事や講演の仕事と並行して準備を進める両親の働きっぷりにも頭が下がったが、さらに驚いたのは役員の方々のすさまじい活力と俊敏すぎる動きの数々だった。当日の来客に備えた駐車場をいくつか準備したのだが、その除草作業や石灰での線引きは、役員の方がそれぞれに道具を持ち寄って、とてもスムーズに進められた。私も邪魔にならないよう気を付けながら作業に参加させてもらったが、途中、「人間が助け合って生きるってこういうことなんだ」と一人勝手に胸を熱くしたのを今でも鮮明に覚えている。
当日は三百人弱の稚児を迎えて、お祭りのごとく盛大に式が執り行われていった。私は黄色い派手な衣を着せられ、父に寄り添って稚児行列にも並ばせてもらった。それと並行し、寺の庫裏ではなんと門信徒の中学生や八十歳を超える役員の方がお茶の準備や来客へのお礼の品の受け渡しなどを淡々とこなしてくださっていた。両親がよく「西願寺は人に恵まれている」と感謝していたが、御遠忌とその準備に関わる中で、私も同じことを思った。人間同士の付き合いの中で培われた関係もあるのだろうし、親鸞聖人や仏教が生み出した門信徒とお寺の関係も今なお生きているのだと思う。
式典から四か月が過ぎた頃、祖母が八十七年の人生を終えて浄土へ旅立っていった。御遠忌の頃はすでに施設で寝たきりの状態だったけれど、無事に行事が終わったことを、きっと心から喜んでいたに違いない。今ごろは空からお寺の今後をじろりと監視してそうだな…。
下記は、御遠忌法要(稚児行列含む)時に西願寺門信徒の皆さまの活躍される姿をカメラマンの藤原伽帆様に撮って頂いた写真です。
後世に残る
おしゃれな鬼塚
修復の記念で修復前の屋根使われていた鬼瓦を置いた鬼塚です。
庭造りの専門家・末吉保様と当山の役員の方々が力を合わせ心を込めて創られた作品です。
石板に掘られた
正信偈
西願寺鐘撞堂の南側からご覧ください。
製作者は安田全一郎様でございます。
海津市の有形文化財
今尾城の山門
当山の山門は、明治7年(1874)頃、西願寺が今尾城の門の一つを譲り受け移築したものといわれ、海津市の文化財に指定されています。
なお、今尾城城門調査研究報告書(木曽川・派川研究会)の中では、西願寺の山門は濡門(内部)でなく頑丈な造りであること、城の東南に造られていることなどから辰巳門(外部)の可能性が高いと結論付けてみえます。
鐘楼堂 に「飛来鶴」の彫刻
本堂及び鐘楼堂を修復してくださった森島建設社長の森島徹也様の作品です。
彫刻された蓮の花
本堂東西の雨樋(とい)下部に独創的な天水受けを創っていただきました。安田全一郎様の作品です。
四方を大理石で囲み南側正面には、彫刻された蓮の花があしらわれています。石で彫刻されているのに蓮の花の優しさが伝わってくるのは何故でしょう。夜になると天水受けに灯りが燈(とも)され、阿弥陀如来の光を彷彿とさせてくれます。